副院長:大村 颯太
【生年月日】 1992年8月 |
【出身】 京都市 |
【資格】 理学療法士 / 健康科学修士 |
【趣味】 ランニング・登山・合気道 |
大村副院長のこれまでについて
「誕生~」
深夜、嵐の日に京都市内で生まれました。「颯太」という名前の由来は「颯爽と生きてほしい」という想いから、母が名付けました。今でも時々、「颯爽と生きているか?」と自らに問いかけるようにしています。
「幼少期~高校まで」
3歳から10歳まで水泳、10歳から18歳まで野球と幼い頃はスポーツに没頭していました。特に小学校6年生のときの監督は、私の人生の指導者で最も厳しい方でした。12歳の小さい身体で365日のうち362日は練習と試合がありました。水分補給の制限、尻バット、年間140試合(土日のみで)、平日は学校が終わってから夜10時まで練習、勝っても負けても体育座りで2時間から3時間のミーティングという名の説教。この1年間は途方もないものでしたが、根性論・精神論をたたき込まれたことが、現在の生き方に反映されていると思います。
特に将来の夢などは持っていなかったので、高校の先生に提案された理学療法士の資格が取れる佛教大学を受験することにしました。単にデスクワークを行うより、身体を動かす仕事が向いてるだろうという理由で、リハビリに対する志はそれほど強くありませんでした。当時は学校教育への関心はそれほど無かったので、授業はほとんど聞いておらず、事前の模試の結果は常にE判定(合格見込みゼロ)でした。受験が近づくにつれ、焦燥感に駆られ、毎日10時間は机と向き合っていました。結果、なんとか合格することができました。それほど、野球引退まで勉強に対しては無頓着でした。
「大学時代」
やっとの思いで佛教大学(https://www.bukkyo-u.ac.jp/faculty/healthcare/physical/)に入学しましたが、理学療法の4年制大学の学費はかなり高額でした。普通の学部と異なり、必修科目の単位を1つでも落とすと留年してしまいます。母子家庭の私は絶対に留年できないという想いから、大学時代からは必死に勉強するようになりました。入学当初は、クラスでも出来の悪いほうだったのは間違いありませんでしたが、結果として、首席で卒業することができました。努力の大切さもさることながら、身体の勉強はこれまでより新鮮に向き合えるものでした。
「病院勤務時代」
京都武田病院の回復期リハビリテーション病棟や整形外科の急性期病棟で勤務しました(https://www.kyototakeda.jp/department/rehabilicenter/index.html)。そこでは脳卒中、人工関節、骨折、脊髄損傷などの患者さんのリハビリテーションに携わりました。リハビリテーションは、その人が生活を取り戻す為に、とても大切なものであり、私自身は重責を感じつつもやりがいを持って日々の臨床に励んでいました。私は自分のできる最大限の理学療法を提供するために、知識や技術を磨く努力を重ねてきました。
しかしながら、臨床での患者さんやご家族の苦しみは耐えるに忍びないこともありました。それらの人の中には、発症前の生活習慣が乱れていた方もおり、「もう少し身体を大切にすれば良かった、、」と後悔の言葉を口にされる方もいました。誰しもいずれは病み、衰え、死に向かうものではありますが、それぞれに与えられた人生を出来る限り健やかに過ごせることができればよいのに、、、臨床を通して、そんな感情が自然と湧き上がりました。そのため、リハビリテーションという機能訓練を学ぶだけでなく、スパインダイナミクス療法や、アプライドキネシオロジーなど予防的な手技療法を学びながら、臨床で応用するようになりました。
「臨床の傍ら、大学院へ進学」
京都橘大学大学院では「ギャンブル依存症の心身機能に関する調査」などを行いました(https://www.tachibana-u.ac.jp/faculty/graduate_health_science/index.html)。依存症は生き方や社会的問題による病です。他の多くの病も生き方や習慣の問題、社会的問題を孕んでいることが非常に多く、異なるようで根は通じている部分があると感じていました。国立病院機構・大阪精神医療センターのドクターの協力もあり、ギャンブル依存症の方々を対象に身体からみた依存症についてのお話などをさせて頂けたのは、自分にとって貴重な経験となりました(https://pmc.opho.jp/index.html)。また、心理学の先生の誘いで刑務所を見学できたことは感慨深い体験でした。ここでの時間は理学療法士として、一人の人間としての視点を大きく変えるものとなりました。
「病院退職」
コロナ騒動が始まり、世界が大きく変化したことをきっかけに、自分のやりたいことを探求したいという想いが強まりました。病院勤務の前から将来は病院とは異なるフィールドで、予防的な対応や退院後のケアをしたいという考えがありました。
京都武田病院を退職し、2022年4月から慢性疼痛外来の増田医院にてハイドロリリース後の理学療法に従事(https://www.eonet.ne.jp/~masuda-clinic/page002.html)。2022年7月に坂田院長とのご縁があり、8月からオク治療室で活動することになりました。
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京都オステオパシーセンターOQでございます。