「血の巡りが悪い」「リンパの流れが滞っている」「脳の血流が足りない」。わたしたちは、ふだんからずいぶん「流れ」という言葉を使っています。でも、ちょっと立ち止まってみると、ひとつ不思議なことに気づきます。体の中で「流れているもの」は、ほんとうに血だけなのでしょうか。
夜、布団に入っても体が重い。気づくと下腹だけがひんやり冷えている。肩のあたりに、何かが溜まって動かない感じがする。——こういうとき、体のどこかで何かが「流れていない」ような、もやっとした感覚があるんじゃないでしょうか。じつは、あの感覚には、ちゃんと名前があります。
この記事では、体の中を「幾筋もの川が流れる、一枚の土地」として、いちど眺めてみたいと思います。そういう見方をしたときに初めて、「ああ、だからあんなに辛かったのか」と腑に落ちる——そういう体験をされる方が、とても多いのです。
前回は「滞り」のお話をしました。今回はその裏返しです。「そもそも、体の中では何が流れているのか」。そこから、ゆっくり辿っていきます。
体の中を流れる、5つの「川」
体の中には、目には見えませんが、いつも流れているものが、少なくとも5つあります。動脈の血、静脈の血、リンパ、脳と背骨をひたしている液、そして、細胞と細胞のすきまを満たしている水です。透明な5本の川が、体じゅうを走りまわっている——そんなふうに思ってみてください。
それぞれに、役割があります。動脈の血は、酸素や栄養を運んでいく「届け手」。静脈の血は、使い終わったものを引き取って帰る「片づけ手」。リンパは、こまかなゴミを集めながらまわる「集め手」。脳と背骨をひたす液は、ゆっくりと寄せては返す「潮」のようなもの。そして細胞のすきまの水は、いちばん身近で、いちばん見落とされやすい川です。難しい解剖の言葉は、ここではぜんぶ脇に置いておきます。
大事なのは、この5本がバラバラに働いているわけではない、ということです。どこか一本が滞ると、となりの川も流れにくくなります。たとえばリンパがうまく流れない場所では、静脈の血も戻りにくくなり、すると今度は、新しい血の届きまで鈍っていきます。川どうしは、たがいに連れ立って流れている。一本だけを取り出して考えても、ほんとうのところは見えてこないのです。
川が「滞る」と、土地はどうなるか
ここで、体を一枚の田畑だと思って眺めてみてください。畑のすみずみまで、細い水路が——さっきの5本の川が——水を届けています。土地が広く実るのは、この水路がきちんと巡っているからです。
では、どこか一本の水路が、ふさがってしまったらどうなるでしょう。その先の一画だけ、水が行きわたらなくなります。土はだんだん乾いてやせ、作物は元気をなくしていきます。
ここが、いちばん大事なところです。よく見てください。その一画は、種が悪かったわけでも、土がもともとダメだったわけでもありません。ただ、水が届いていない。それだけなのです。
体も、これとよく似ています。使い終わったものの片づけが追いつかず、細胞のまわりに、ゴミと余分な水がたまっていく。肩のこり、下腹の冷え、頭の重さ、理由のはっきりしない重だるさ——こうした不調の多くは、体のどこかで川が部分的に止まり、その先の「一画」に水が行きわたっていない状態として、見ることができます。
そして少し厄介なのは、滞りはしばしば連鎖することです。骨盤のまわりにも、腕のつけ根にも、川がいくつも交わる「交差点」があります。そこで流れがつかえると、肩のこりと下腹の冷えが、なぜか同じ時期にそろって出てきたりします。こうなると、「気になる一か所だけをもみほぐす」やり方では、なかなか追いつきません。一枚の土地として、水路全体の巡りを見ないと、症状どうしがつながってこないのです。
「流れを読む」という、手の仕事
では、わたしたちは施術のとき、いったい何をしているのか。ひとことで言えば、「手で、流れを読んでいる」のです。
体に手を置くと、ドクドクという脈だけが伝わってくるわけではありません。もっとゆっくりした液のリズム、こまかな水の動き、すきまの水のたまり方——手のひらの下で、そういう「流れ具合」を読みとれるように、長い時間をかけて手を育てていきます。わたし自身、25年以上のあいだ人の体に手を置きつづけてきて、ようやく「ここは流れている」「ここは動きにくい」が、手の下で見えるようになってきました。
手を置いている時間が長くなるほど、その下の「流れやすさ」「さわり心地」「動きやすさ」が、少しずつ立ち上がってきます。何かを先回りして「ここが悪いはずだ」と当てはめにいくのではなく、まずは、体のほうから教えてもらう。どの水路が、どんなふうにつかえているのか。その場所を、いそがず見つけていく時間です。
古くから伝わる教えに、「見つけて、整えて、あとはそっとしておく」という言葉があります。三つのうち、いちばん最初は「見つける」こと。流れがどこで止まっているのかを見つけられなければ、その先は始まらないのです。
「一本の動脈」という、よくある誤解
ここで、ひとつ、解いておきたい誤解があります。
オステオパシーを百年以上前に始めた医師が、「体の流れの支配は絶対だ」という意味のことを書き残しました。ところが、この一行だけが切り取られて独り歩きし、いつしか「オステオパシー=動脈をひたすら流すマッサージ」のように受け取られてしまった時期がありました。
けれど、その言葉を、前後の文章ごとていねいに読み直すと、まったくちがう景色が見えてきます。その人が「流れ」と言ったとき、指していたのは一本の血管ではありませんでした。体じゅうを巡る液の流れ全体——さきほどの5本の川すべて——のことだったのです。「動脈」は、その全体を代表する、いわば看板として選ばれた言葉でした。
ですから、今のオステオパシーは、「動脈だけをせっせと流す」ところにはいません。見ているのは、はじめにお話しした、5本の透明な川のほうです。
整えるのは手、流れを取り戻すのは体
「手で流れを読む」「滞りを取り除く」と言うと、何もかも手の側がやっているように聞こえるかもしれません。でも、ほんとうの主役は、手だけではないのです。
手にできるのは、「ここが滞っている」という場所を見つけて、流れをふさいでいるものを、そっとどけることまで。流れをもう一度取り戻すのは、体のほうです。ふさがっていた水路がふたたび通れば、あとは——さっきの田畑と同じで——その一画は、自分の力で、ゆっくりと元気を取り戻していきます。手と体、その両方が出会ったところで、体は整っていきます。
だからわたしたちは、「治します」とは言いません。これは、ひかえめに言っているのではなくて、ものの見方そのものの問題です。水路を通すお手伝いはできても、土地をよみがえらせるのは、いつだって、その土地自身なのですから。
そして——「流れを取り戻す」という話は、じつは体の中だけにとどまらないのかもしれません。その続きは、また別の記事で。
おわりに、あなたの体に戻って
いま、この記事を読んでいるあなたの体の中にも、5本の透明な川が流れています。ふだんは見えないだけで、ひとつの例外もなく、ちゃんと巡っています。
もしこの先、「なんだか調子が悪いな」と感じることがあったら、いちど、こう言いかえてみてください。「体のどこかで、流れが滞っているのかもしれない」。たったそれだけで、同じ不調が、少しちがって見えてくるはずです。
病気の名前は、流れの滞りがだいぶ進んだあとに、人があとからつけた名前にすぎません。その名前がつくずっと手前に、いつも「流れ」の物語があります。
体の中の川の話は、もう少し続きます。「そもそも、なぜ滞りは起きるのか」は前回の記事で。「体はいつも入れ替わりながら、流れつづけている」という話は、また次の記事で辿ってみたいと思います。読み終えたあと、体が少しだけ軽くなっていたら、うれしいです。
「これって流れの滞りかな」と思いあたることがあれば、一度ご相談ください。京都・大宮のオステオパシー専門院OQが、症状のある場所だけでなく、体全体の巡りから読みといていきます。
体のことで気になることがあれば
「これって流れの滞りかな」と思いあたることがあれば、一度ご相談ください。京都・大宮のオステオパシー専門院OQが、症状のある場所だけでなく、体全体の巡りから読みといていきます。