スタッフ紹介

院長:坂田 雄亮

院長:坂田 雄亮

生年月日
1982年2月
出身
京都市
資格
あん摩マッサージ指圧師 はり師 きゅう師 
趣味
語学勉強、カリステニクス

坂田院長とオク治療室のこれまでをおしえてください

「幼少の頃」
父が少林寺の師範をし、母がヨガのインストラクターをしていた経緯を持つ家庭に生まれ、幼い頃から代替医療(鍼灸や整体など・・・)に親しんで育ちました。


「中学生〜高校生」
クライミング三昧の日々・・・
中学校3年生の時にフリークライミングと出会い没頭。

さらにクライミングに集中するため、単位制の高校に進学しました。

当時は今よりももっとクライミング人口は少なく、関西にはまともなクライミングジムが出来島にしかなく、京都から電車を乗り継ぎ、クライミングジムに出かけ、練習→学校→アルバイト→練習・・・と言うクライミング三昧の高校生活を送っていました。

「怪我から目標の転換」
高校2年生の時、登っている最中に足が滑り、不意に右の薬指だけに負荷がかかり薬指の靭帯を伸ばしてしまったため、クライミングの休止を余儀なくれました。
当時全てを捧げていた生き甲斐とも言えるクライミングが出来ず、塞ぎ込んでいました。

そんな時、当時美術コースの顧問をしていた先生にとある治療師を紹介してもらい、治療を受けることになったのです。

その美術の先生なんですが、ただの美術の先生ではなく「マッサージペインティング」なる作品を手掛けておられ、カイロプラクティックの学校にまで通っている先生だったのです

その先生から紹介してもらった、カイロプラクターの先生も大変面白い先生で、勿論カイロプラクティックらしいアジャスト(矯正)もされていたのですが、気功もされており怪我をした薬指を触っただけで、その時の状況まで言い当てられました。

凄い感覚に当時の私はものすごく感動しました。

怪我の治療以外にもその先生の治療室に通うようになり、気功治療でクルクル回されたりしているうちに、自分もいつの間にか気功が出来るようになっていたのです。

学校で友達に気功を掛けたり、マッサージしたりしているうちに、クライミングよりも人間の体や治療に興味が出てきてしまい、将来の目標がクライマーから治療師へと自然と変わりました。

「オステオパシーとの出会い」

何かに夢中になるとまっしぐらになる私は、様々な治療関係の本を読みあさり、アンドルー・ワイルM,D,著の「癒す心・治る力」と言う本と出会いました。

その著書の第2章「わが家の裏庭で」に登場するD,O,(ドクター・オブ・オステオパシー)のロバート・フルフォード先生の存在を知り、本の中で語られる超人的手技とオステオパシー哲学に感銘をを受けました。

このフルフォード先生をもっと知りたいと思っていた最中に「いのちの輝き」と言う、フルフォード先生が書かれた本が出版されました。

本の中で、とにかく平易な言葉を使い、時にジョークも交え、しかも奥深く、本質的な内容に私は「オステオパシーをやろう!!」と決心。

当時、関西でオステオパシーを学ぶには医療国家資格(鍼灸師・マッサージ師・理学療法士等)が必要だったので、興味のあった鍼灸学校を受験することに決めたのでした

「受験失敗〜3年間のアルバイト生活」

京都にある某鍼灸大学を推薦入試で受験するも、失敗・・・ 一般入試に掛けようとしていた矢先に、父の会社の倒産・・・ 医学部程ではないにしろ多額の授業料がかかる大学を諦め、アルバイトをして授業料を貯めることにしました。

京都駅すぐの複合施設内の飲食店で朝6時〜12時までは1階のカフェで働き、12時〜18時までは2階のレストランで働き、18時〜23時までは8階のラウンジで働く生活を2年続け、その他にもパチンコ店・バー・引越し・イベントでのきぐるみetc…と、吐血と下血を経験しながら専門学校の学費を捻出しました。

「鍼灸マッサージ専門学校入学」

3年間のアルバイト生活の後、やっとの思いで京都の某鍼灸マッサージ専門学校に入学したものの、その学校では鍼灸の面白さは分からず、オステオパシーの本ばかり読んでいました。。。(苦笑)

「整骨院勤務」

卒業後、アルバイトをしていた某最大手スポーツクラブ内の整骨院で3年間副院長として勤めました。

ちなみに、当時の院長は専門学校時代の同僚で関西ボディービルチャンピオンです。

「開業」

2007年6月19日に寺町御池商店街内のマンションの一室を借りて「オク治療室」をスタートさせました。

「店舗移転」

2009年4月 寺町御池から四条大宮の3階建て店舗に移転。

「1階改装」

2012年11月1階駐車場部分を改装し、オク治療室を2階から1階に移しました。
無垢の木をふんだんに使った空間です。

「2階改装」

2階を改装し、パーソナルトレーニングルームと治療室を新たにし、2022年8月から大村副院長を迎え、2人体制での治療室になりました。

 

 

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ポーランドでの発生学セミナー受講時

ポーランドでの発生学セミナー受講時

副院長:大村颯太

副院長:大村颯太

生年月日
1992年8月19日生まれ
出身
京都市
資格
理学療法士・健康科学修士
趣味
合気道

大村副院長のこれまでについて

「幼少期」

 3歳から10歳まで水泳、10歳から18歳まで野球と幼い頃はスポーツに没頭していました。特に小学6年生のときの監督は、私の人生の指導者で最も厳しい方でした。12歳の小さい身体で365日のうち362日は練習と試合がありました。水分補給の制限、尻バット、年間140試合(土日のみで)、平日は学校が終わってから夜10時まで練習、勝っても負けても体育座りで2時間から3時間のミーティングという名の説教。この1年間は途方もないものでしたが、根性論・精神論をたたき込まれたことが、現在の生き方に反映されていると思います。

「大学時代」

 特に将来の夢などは持っていなかったので、高校の先生に提案された理学療法士の資格が取れる佛教大学を受験することにしました。単にデスクワークを行うより、身体を動かす仕事が向いてるだろうという理由で、リハビリに対する志はそれほど強くありませんでした。

 入試の1週間前まで合格見込みはありませんでしたが、なんとか合格することができました。このときは詰め込みで1日10時間は勉強していました。それほど、野球引退まで勉強に対して無頓着でした。

 理学療法の4年制大学の学費はかなり高額です。普通の学部と異なり、必修科目の単位を1つでも落とすと留年してしまいます。母子家庭の私は絶対に留年できないという想いから、大学時代からは必死に勉強するようになりました。入学当初は、クラスでも出来の悪いほうだったのは間違いありませんでしたが、結果として、首席で卒業することができました。努力の大切さもさることながら、身体の勉強はこれまでより新鮮に向き合えるものでした。

「病院勤務時代」

 病院では回復期リハビリテーション病棟や整形外科の急性期病棟で勤務しました。そこでは脳卒中、人工関節、骨折、脊髄損傷などの患者さんのリハビリテーションに携わりました。リハビリテーションは、その人が生活を取り戻す為に、とても大切なものであり、私自身は重責を感じつつもやりがいを持って日々の臨床に励んでいました。臨床での結果を求めて、東京や沖縄など遠方のセミナーにも積極的に参加しました。

 臨床の傍ら、京都橘大学大学院の修士課程にも進学しました。大学院では「傾斜計を用いた胸椎後彎角に関する研究」や「ギャンブル依存症の心身機能に関する調査」などを行いました。国立病院機構・大阪精神医療センターのドクターの協力もあり、ギャンブル依存症の方々を対象に身体からみた依存症についてのお話などをさせて頂けたのは、自分にとって貴重な経験となりました。

「病院退職」

 コロナ騒動が始まり、世界が大きく変化したことをきっかけに、自分のやりたいことを探求したいという想いが強まりました。病院勤務の前から将来は病院とは異なるフィールドで活動したいという考えがありました。2022年3月で病院を退職。2022年4月から増田医院にてハイドロリリース後の理学療法に従事。2022年7月に坂田院長とのご縁があり、8月からオク治療室で活動することになりました。

 脳卒中後遺症の姿勢や動きのコンディション、人工関節術前後のケア、慢性痛の施術はお任せください。